2016年3月31日木曜日

1-3 辺野古の基地:キャンプ・シュワブは、住民が誘致して建設された。 ???

 キャンプ・シュワブの建設が決まり、土地の接収が始まったのは、1956年11月です。その前年、伊江村・真謝区と現在の宜野湾市伊佐区などで、米軍は基地建設のための土地の強制収容を行っています。これは「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる、人が住んでいる家を、強制的に住民を排除した上で、取り壊すという非道なやり方でなされました。また土地を二束三文の賠償金で取り上げるやり方に反対し、沖縄では、1956年7月に10万人以上が参加した抗議集会が開かれるなど、「島ぐるみ闘争」と呼ばれる運動が盛り上がっていました。

 辺野古区が、キャンプ・シュワブの建設を受け容れたことは事実ですし、それが「島ぐるみ闘争」を挫いたとも広く考えられています。

 しかし、積極的な誘致をした事実はありません。米軍施政下の沖縄には、日本国憲法も米国憲法も住民の人権を守る上で適用されていなかったことを忘れてはなりません。辺野古区編(当時の久志村)『辺野古誌』には、伊江島や伊佐浜の惨状から、反対しても止められない、ならば基地からより多くの恩恵を受けた方がまし、という判断がなされた事情が書かれています。

 インターネット上では「サンキ浄次元米陸軍中佐の手記」というものを根拠に、キャンプ・シュワブやキャンプ・ハンセンは誘致されたとする主張も見かけますが、その手記が実在するのかすら確認できません。また手記の内容とされる当時の旧久志村の議会や首長の米軍当局への基地誘致の陳情等は、確認できる米軍の公文書や、関連する歴史的事実、人々の証言とも矛盾しています。(佐藤・宮城)

この検証へのリンク:http://okidemaproject.blogspot.jp/2016/03/1-3.html