2016年3月31日木曜日

5-6 琉球王国の王府は、中国伝来の人々が支配していた。その子孫たちは今でも沖縄の有力者で中国に取り入ろうとしている。 ???

 1372年最初の朝貢を行った中山王察度以来、那覇の久米村に、多くの中国人が滞在し次第に琉球王国の防衛と外交に関わるようになります。琉球国王は、国王の臣下としての忠誠と引き換えに琉球士族として身分と琉球名を与え、彼らは琉球王国の支配体制の一部を担うようになります。しかし、琉球王国のもっとも有力な支配層は、琉球の島々で力を蓄え王国を築いてきた王族出身、大按司(うふあじ)等からなる5大名門の一族でした。たとえば王府の最高位である「三司官」に、久米村出身士族は、原則として就任できる身分ではありませんでした。久米村出身者は、多くが琉球人留学生と北京に赴き、帰国後は琉球の貿易・外交に従事します。彼らが琉球王国を支配し、中国に琉球を差し出そうしていたという歴史的事実はなく、朝貢貿易体制を続けることが琉球王国の独立を維持する外交上の存立基盤でありかつ経済的な基盤であり、そこに貢献しました。

 朝貢国とは、国王が形式的に中国皇帝に対して臣下の礼をとる(冊封を受けるといいます)ものの、一切内政に干渉されることはなく、その独立を保障された国のことです(日本では足利義満の室町幕府時代に冊封を受けたことがあり、そういう形式をとっていました)。琉球・沖縄が中国の実質的な支配下にあったことは歴史上一度もなく、琉球の独立性の維持に貢献したのが久米村の士族という評価ができます。その子孫が沖縄を中国に差し出す、というのは自らの歴史の否定にほかならず、できることでありません。(島袋)

この検証へのリンク:http://okidemaproject.blogspot.jp/2016/03/5-6.html